私の読書遍歴5~吸血姫はお好き?~鱗姫とエリザベート・バートリ~
さてさて、読書の秋と言うことで、私の趣味嗜好に大いなる影響を与えた本達を好き勝手にあーだこーだ書き散らす試み第5弾。
わりと、偏向してるとは思うのだが、私は流行り物を流行の黄金期に観ない・読まない人間だ。
周りの熱狂でつられてるだけなのか、本当にそれが好きで観てるのか、判断が出来ないと気持ちが悪いからである。
ここが私の意固地なところである。自分でも分かっている。
だけども、皆が好きな物は、わざわざ自分が好きにならなくてもいいもの。
そう心で制限をしたりするのが好きな性癖なのかも知れない。
自分を制限したり、抑えるのが好き。
この傾向は、高校生時代くらいから顕著であった。
自分で自分を傷つけて、傷を舐めて癒やして、癒やせぬ傷を愛でる。
分かる人には分かる、分からない人からするといくら言葉を重ねて説明しても理解されない性格の傾向である。
そんな訳なのか、卵が先か鶏が先か分からないのだけれど。
私は、自分を追い詰め系の主人公が出てくる話に途轍もなく共感したり、安心したりする。
そんな主人公が、自分を抑えられず暴走して、あまつさえ、破滅までいってしまうと、何て見事な突っ走りぶり!!!と憧れてしまう。
そんな主人公がよく出てくる話と言えば
(たけもと・のばら)
の作品かも知れない。
私が初めて嶽本野ばらの小説を読んだのは、丁度二十歳くらいの頃。
「ミシン」という短編集に収録されていた「世界の終わりという名の雑貨店」だったと思う。
映画は観てないのだが、この作品は映画化もされていたようだ。
小説が好きすぎる作品は映像は観ないようにしている。
多分、コレジャナイ感をどうやっても感じてしまうから。
現在手元にその小説を持っていないのと、読んだのが大分昔なので私の記憶だけで簡単に内容を説明すると、
本業のライター業を休業している、回想の当時は雑貨店を営む「僕」と、ファッションを愛する「少女」の哀しい恋と喪失の物語、と言った所か。
当時憧れていたViviane Westwoodのお洋服や、お洒落なブランドのお洋服の描写が大好きだった。
「僕」のにべもない淡々とした物言いが好ましかった。
自尊心は高いのに、自己肯定感が低すぎる少女の純粋さや潔癖さは共感を覚えた。
愛する人が苦しんでいても、とってつけたような救いを口にしないお互いの「自分自身の心の扱い方」を尊重するような関係性が好きだった。
そう。私は自分の中の違和感の正体を嶽本野ばらに書いて貰った気持ちだった。
自分を救えるのは自分しかいない。だけども、それはとても困難である。ということ。
私は尊重されるのが好きだ。
自分の義務と引き換えにしか得られない尊い自由を愛している。
私の愛するシンガー・ソング・ライターのCoccoとは違う形で、嶽本野ばらの小説に出てくる登場人物は、安易に他人と迎合しない(できない)孤高であることの苦しみと美しさを教えてくれる。
本当に、生きることに絶望を感じている時、私を救うのは優しい労りを与えてくれる他者ではなく、自分より過酷に孤高に美しく在る・絶望を知る、その生き方を作品に映す人達だった。
「世界の終わりという名の雑貨店」一部読めます。興味がある方は。
ミシン/嶽本野ばら↓
http://www.books-ruhe.co.jp/kako/2001/01/mishin.htm
(ご存じの方は多いかも知れませぬね、「下妻物語」は映画でもヒットいたしました。深田恭子さん、土屋アンナさん主演のアレです。)
結構あの作品はライトでコメディタッチなので、野ばら作品の真骨頂とは違う気がする。
もちろんあの作品を嶽本野ばら氏の作品で1番好きという方がいらしても、否定はしませぬ。
(私は、好きな作品について紹介する際、自然にその作家さまの書体というか、文体に表現が寄ってしまう。
これは、意図的なのか無意識なのか自分でもわからない。
分かる方には分かると思うのだが、この文体は嶽本野ばら風でございます。)
嶽本氏の作品の中では、あの作品はダークさと偏狭さとエグさとグロさとストイシズムとナルシシズムとエロティシズムと・・・
とにかく、彼の作品にあるべきの全てのエッセンスが上澄みで消化しやすくなっていたように思える。
入門編の方、グロさが苦手な方にはいいと思う。
多分、嶽本氏もあの作品に関しては、そこら辺を薄くしてポップにすることを意識して作られたのではないかと推察する。
私は、勝手ながら、私が思うTHE野ばら氏の真骨頂!!!という作品を愛している。
その中でも、初期のエッセイ集
「それいぬ~正しい乙女になるために~」
「パッチワーク」
あたりは、今でも心の隅に置いてる私のバイブルである。
野ばら氏が敬愛する「それいゆ」「ジュニアそれいゆ」等、戦後日本の乙女達を牽引したマルチ・クリエイターの中原淳一先生を知ったのもそれらのエッセイ集によってだった。
中原淳一(先生) ホームページ↓
https://www.junichi-nakahara.com/
以前の私の記事でもちょっとだけ言及しております。↓
モリスとミュシャ~テキスタイルってなんだろう・今日から始めるアーツ&クラフツ運動~
https://blog.hatena.ne.jp/satomi_mignon/satomi-mignon.hatenablog.com/edit?entry=4207112889909847263
一貫していっていることは、
乙女たるもの、自分を貫くものです。
といったところか。
私は永遠の乙女である。
これは他のいかなる部分が変化しようと永久不変のフラグメントとして存在し続ける。
さて、エッセイは読みやすいのでどれもオススメではあるのだが、小説で好きなものは。
やはり、野ばらイズムを顕著にしているヒロインが出てくる
「鱗姫」
(うろこひめ)
である。
性描写がなかなかエグいので、苦手な方はいるかも知れないのだが、私はそこのエグさも野ばらイズムなので、瞳をそらさない。
嶽本野ばら氏は何度も三島由紀夫賞候補等、賞の候補になってはいるが、性描写の乱用や破滅的なストーリーが批判の対象になっているらしい。
ファンからすると、そこを省いてもストーリーは成立するかも知れぬが、主人公や登場人物の危うい純真さ・心理状態故の破滅行為は切っても切れぬと思うのだが。と容認してしまう。
アレか?カリスマのそういった描写を安易に真似する若人を懸念してのことか?
暴力描写さえしなければ、暴力がなくなるみたいな思考のショートカットか?
それこそ馬鹿げてる。
人が暴挙に出るのは、想像力の欠如なのだ。
おもいやりや気遣いは想像力なのだ。
何でも結論から学ぶものではない。人は失敗や経緯から学ぶのだ。
ショートカットした思考からは、学びは薄い。
話がズレたが、ともかく、「鱗姫」という作品が今でも嶽本氏の作品では野ばらイズムを1番顕著にしている作品と私は捉えてる。
「鱗姫」とは、簡単にいうと美白・美肌とファッションに命を賭けている女子高生が主人公。
主人公が通っている学校は日傘が禁止で没収されてしまうのだが、
お金持ちなので何度没収されようがどこ吹く風で、新しい日傘をさし登校を繰り返す。
日傘が駄目なら晴雨両用の傘で乗り切ったりする。
無論教師から見ると目の上のたんこぶだが教育的指導を渡されようと親を呼び出されようと絶対に美容の為なら自分を曲げない。
そんな主人公が家系的に受け継いでしまった奇病を隠しながら気高く生きる、といった物語である。
私は自分と相容れないものを絶対に受け容れない主人公が大好き。
そんな自分を変えようとする人間関係なら無視する。
友達なんか要らない。
強がりじゃなく、正々堂々と生き様を見せつける主人公に拍手喝采。
私が私であるために、戦うのだ。
このスタイルには影響を途轍もなく受けた。
私はこういった主人公をみると元気になる。励まされる。
「鱗姫」は乙女に向けたアンセム(讃歌)なのだ。
20年以上経った今でも私の基礎を担う大切なバイブル。
これからもずっと私の心の隅に嶽本野ばらイズム。
鱗姫 嶽本野ばら著 Amazon↓
さて、この物語に深く関与する歴史的人物の描写がある。
エリザベート・バートリである。
エリザベート・バートリは、16世紀末から17世紀初頭に実在していたハンガリーの貴族。
ハンガリー人の人名は日本と同じで姓が前に出て、マジェル語だと旧姓のバートリが前に出て
バートリ・エルジェーベト
が正式な記述らしいが、ハンガリー王は当時のドイツ=神聖ローマ皇帝(オーストリア大公)が兼ねていたため、公用語のドイツ語表記の
エリザーベート・バートリ
が一般的には用いられる。
史上名高いの連続殺人事件を起こした人物であり、吸血鬼のモデルになった人物である。
簡単にいうと、夫(ハンガリー貴族ナータジュディ・フィレンツェ2世。バートリ家の方が身分が上だったため結婚後も旧姓を名乗った。)とは良好な仲だったが、自分の方が身分が高く夫も戦争で不在がちだったためやりたい放題。
夫が存命中から召使いを虐めたり(夫が虐め方を教えたとの説もあり)やがて夫が亡くなると留め金がなくなったせいか、ますます残虐行為はエスカレート。
性別問わず愛人を持ち放蕩三昧。
そして自分の美貌が衰えるのを何より恐れ、処女の生き血に若返りの効果があると盲信し、
「鉄の処女(アイアン・メイデン)」という器具を使って(貧しい娘をさらってこさせ、または割のいい仕事があると斡旋して連れてこさせ)若い娘の生き血を絞り湯船に張って浴びたという。
そして残虐性があり、拷問器具を使って拷問をし楽しんだという。
何が彼女をそうさせたのかは分からないが、親戚で悪魔崇拝や黒魔術に傾倒した人物がいたり、元々近親婚が多かった家系の影響でエキセントリックな性格だったりで、夫留守で暇すぎて子育ても義母や召使いに取られて暇を持て余してやり過ぎちゃったのかな。
半端な知識で黒魔術に傾倒するのは、危険過ぎる。身分が高すぎて誰も止めれないし。
身分が高い人ほど身を慎まなければ不幸の元、というわかりやすい凡例。
当時の貴族の権力は絶対的なものであり、事件もなかなか発覚しなかった、が、行き過ぎた被害者の人数と果ては下級貴族の娘にも被害が行きついに発覚したらしい。
共犯として従僕は斬首刑に、女中2人は火刑となったが、エリザベートは高貴な身分だったため扉と窓を漆喰で塗り塞いだチェイテ城の自自身の寝室に生涯幽閉となった。
1日1回食物を渡す小窓だけ残し、扉も窓も厳重に塗り塞がれた寝室で、彼女は3年半に渡って生き続けた。
そして1614年8月21日、食物の差し入れ用の小窓から寝室を覗いた監視係の兵士により死亡が確認された。
彼女の所領は彼女のこども達が相続することを許されている。
最後の一文を見ると、貴族にはとんでもなく甘い判決だな、身分制度えげつない、と思うが、
どうやらバートリ家の財産分与がオスマントルコ帝国とオーストリア・ハプスブルク家の抗争に関係してるという背景があるらしいので、抗争の犠牲となったエリザベート・バートリに温情があったとかないとか。というところらしい。
簡単に説明してこれだから、これは創作のネタになるのは頷ける。
「鱗姫」の他にも、エリザベート・バートリを題材にした小説や漫画は沢山あり、海外作や音楽でも多数あるが、身近な例だと、
小説だと前回紹介した島田荘司の「アトポス」にも、長ーい長―いエチュードとして登場するし、
漫画だと池田理代子の不朽の名作「ベルサイユのばら」の外伝「黒衣の伯爵夫人」編でエリザベート・モンテクレール伯爵夫人として登場する。
後は拷問器具「鉄の処女(アイアン・メイデン)」もいたるところで見受けられますね。
現存する複製品としては、明治大学博物館所蔵のものがあるらしい。
何とも創作意欲をそそるアイテムらしく、色んな映画や作品に取り上げられている。
ハードロック・ヘヴィメタルバンドでアイアン・メイデンていたよな?
100%グルーブ名の由来だろうな。
私が初めて関連作品を見たのは「ベルサイユのばら」かな。
あの残虐性が少なく読みやすい。でもあの美に執着する世界観はよく描写されている。
気絶してもコルセットをやめれなかったり、
肺炎で死んでも流行の薄着のドレスを真冬のヨーロッパで着続けた貴族の独善的な美意識が、
現代のダイエット至上主義の闇と紙一重で古今東西懲りないのだな、と遠い話でもないのだ、と他人事には出来ない。
女性の美容やダイエットは決して異性の目を気にしてする単純なものではない。
やり過ぎちゃうと自分の闇と向き合う結果になりますが、
それでも・あなたは・綺麗になりたいですか・・・・???
(ホラー調)
さて。
美の執着の闇。
と捉えるか
曲げれない自分を絶対の曲げない矜恃の美学。
と捉えるかは貴方次第。
自分の闇を矜恃へと昇華させたなら、貴方も立派な乙女です。
おしまい。