3月11日によせて~forget it,let it go~

東日本大震災から12年経ち、

記事を残す勇気がちょっとだけ芽生える。

 

人間には癒える傷と、癒えない傷がある。

 

どちらかといえば、この件は癒えない傷である。

 

癒やすことばかりが救いではない。

癒やされなくても、遺したいものがある。

遺したいものを明確にして伝えて、初めて忘れることも自分に許せる。

忘れることすら許されなかったことを、

忘れるために、書く。

 

忘れることを、許そう。

自分も、他人も。

 

救いとはそうだと、私は信じている。

 

サブタイトルの

forget it,let it go は直訳すると

忘れよう、手放そう

というところ。

 

昔から大好きな沖縄出身のシンガー・ソングライターCoccoが2001年に休業する際に特集が組まれた音楽雑誌、「SWICH」のタイトルから頂きました。

今でも読みたくなる特集記事です。

Coccoの歌と詩は私の感受性に大いなる影響を与えましたのでお借りしました。

 

忘れることを許す、という

自分の解放という意味も込めました。

 

ちょっとだけ私語りをする。

私は宮城県亘理(わたり)郡・亘理町出身である。

 

最近話題になった佐藤厚志氏の芥川賞受賞作、「荒地の家族」の舞台でもある。

地元愛ゆえ、いても立ってもいられなくなり、購入したが読了前。

この作品の感想を語るのはまた別の機会に譲りたい。

 

ともかく、我が故郷を分かりやすく全国へ向け説明するとこの一言で説明できる。

 

我が生家は自転車で10分も走れば鳥の海。

海の近くには野球場。

地元の草野球チームやお年寄りのグランドゴルフが活き活きと活動していた懐かしい場所。

荒浜海水浴場は、幼い頃よく海水浴に行った。

仙台市若林区の荒浜とはまた別の地です。)

 

震災後、親だったか祖父母だったかが言ってたな。

 

「浜」がつく地名は津波の危険が高い地域だと。

私たちが住んでいたのは「大畑浜」と言う地区だった。

住所ではなく、地名として残っていた名前。

私が幼い頃は「部落」と呼んでいた。

差別用語と混合するので、現在は使われなくなっているが。

部落っていう響きがいい意味でしっくり来る土地柄。

名称というのは言い換えが出来ないものだと思う。

意味として、作用するだけ。

揶揄するでも、差別するでもない。

ちゃんと意味があって名付けられて、受け継がれていた地名だった。

 

再開発が進んで、忌むべき地名を変え、未来に危険性が伝わらない懸念はすごく理解できる。

どんなに縁起が悪くとも、先人がつけた名前には意味がある。

決して、軽んじてキラキラネームなどにつけ変えてはならない。

モノの名称には役割がある。

消すことで引き換えに出来ないほどの厄災があるのだから。

軽んじてはならない。

 

今では件の野球場は防災公園。

こんもりとした避難用の丘は、巨大なお墓にしか私には見えない。

 

新しく植えられた防風林の、背丈の短さが津波の跡を物語る。

 

震災の前の実家付近の防風林はおばあちゃんの庭で、祖母はキノコ採りの名人とご近所さんからも評判だった。

祖母はそれらを始末して、仙台の市場に商いによく出ていた。

祖母は自分の縄張りは、絶対に誰にも教えなかったそうだ。

山菜を採る人たちって、自分にとって良い場所は他人に教えないって聞くからな。

 

その頃の、まだ若い祖母の写真を2021年の葬式の写真を選ぶために見た。

好きな商いをしている、喜びに満ちた笑顔で写っていた。

(実家は津波で全壊だったので写真はほとんど残ってないが、親戚が提供してくれた。)

 

最近は曾祖父の日露戦争出征前の写真をもらった。

凜々しい若い曾祖父。

父親が

曾祖父はエリートだったんだぞ、日露戦争は誰でも出征できるような人選ではなかったんだぞ、

と少し誇らしげに教えてくれた。

(曾祖父は無事に帰還し私が生まれる大分前、昭和30年に亡くなっている。)

古いフィルム写真を、最近の印刷用紙にプリントした曾祖父の写真は、私が精一杯できる限りの装丁をしてリビングに飾った。

こんなに格好良い曾祖父の写真を飾らないなんて勿体ない。

そう思ったのだ。

つい最近のことである。

#ご先祖さま

ほーら、うちの曾祖父様かっこいい。

お隣は昭和61年に97歳で亡くなった曾祖母様の遺影。

瓦礫の中から救い出した遺影を、崩さぬように取り出しやっと新しい写真立てに入れる。

思いのほか心の整理となった。

 

これが大分

 

先祖を辿ることは自分のアイデンティティにとって大きな役割を担う。

足下よりもっともっと確かなもの、魂の核の部分が真っ直ぐ定まるような感覚だ。

 

自分の命は自分1人のものじゃないと実感する。

 

私は何度も死にたいと思ったことがある。

高校生から20歳代後半にかけては顕著に。

 

理由などなかった。

ただ生きているのがしんどかったから。

他人に語れる死を想うエピソードなど取り立ててなかったから、誰にも言わなかった。

死ぬ死ぬ言って生きている状態なんて、私のプライドが許さなかった。

そんなに簡単に言える内は、絶対死ぬヤツなんていない。

自分の言動を軽く扱う気などなかった。

 

死ななかったのは、先祖や親世代が繫いでくれた自分の命が自分一人のモノではないと知っていたからだ。

そして、東日本大震災で生き残ったからには、私が死ねないのはもう運命だと確信した。

 

震災で生き残ってからは罪深いと思えて、自分で自分の命を絶ちたいと思うことは禁じていた。

 

さて。

話を戻すと。

祖母の庭だった、その防風林は夏でも湿って暗くて、

でも嫌いじゃなかった。

小さな頃は、その防風林を抜ければ海への近道と知っていたので、道なき道を通って海まで行った。

落ちた松葉に育てられた肥えた土の、苔の匂い。

つるつると滑る松葉の地面。

五感が今でも覚えている。

 

私は海の恩恵を五感で感じて育った。

恩恵が違う顔で被害をもたらしたからと言って、海を恨む気持ちは芽生えなかった。

 

でも。

 

よく通っていた鳥の海も高い堤防に囲われて海が見えない。

高校生の頃、気持ちが落ち込むと夜中に海まで自転車を漕いで通ったりした。

 

堤防を見るのはつらい。

でも見に行かずにはいられない。

彼岸の墓参りのついでに、わざわざ哀しい思いをしに堤防に寄ってしまう。

 

この景色が、嫌いだ。

なのに、見に行ってしまう。

 

生家の家業はいちご農家だった。

沿岸部の小型ビニールハウスでつくるいちごは、東部道路より内陸部のものより甘くておいしいと評判だった。

美味しい理由は、海の風や砂地の畑が作用しているから。

いちご農家だった両親は誇らしげにそう教えてくれた。

 

海へと抜ける防風林のすぐ手前にあった。

母が嫁いできたくらいの頃は、側の用水路では蛍が見えて、林に狐も棲息していたとのこと。

私は狐が近所にいたという話を、ワクワクして聞いた。

その辺の狐はその後流行病があって絶滅したと聞いた。

 

(両親と姉夫婦はいちご農家をしていたが震災後農家をやめ、健在です。

祖父母も震災を生き延びて、寿命で亡くなりました。二人とも90歳を超えた大往生でした。)

 

さて。

震災当日の話をしましょう。

被災当日は家人はいちごのビニールハウスを閉め

(日中は空け、夜間は閉める管理が必要な小型ハウス)

その後最寄りの小学校に両親・祖父母・姉夫婦は避難しました。

 

指定避難場所ではなかったのでその避難先にまで津波は到達。

車を捨てて、徒歩で更に内陸の避難所へ行ったそうです。

 

その徒歩での避難で祖母はすっかり参ってしまい、避難所では一時期寝たきりになってしまいました。(車椅子を借りて避難所のトイレに連れて行っていた。)

その後、足腰は復活したのですが、その日をきっかけにか痴呆がすすんでしまいました。

 

母方の祖母も、震災の直接の被害は免れましたが、避難先から意識不明になり、胃ろうをして去年まで生き延びましたが一度も意識を取り戻さなかったです。

 

唯一の救いは、叔父(母方の祖母から見て末息子)が津波で行方不明のまま葬式を出されたことを知らなかった事かも知れません。

 

命は助かったけれど、二次災害のようなものは目の当たりにしていました。

避難の後の、避難関連死というものを防ぐために用心することは大切です。

 

命さえ助かれば、というのはある程度健康で若い人の話かもしれない。

お年寄りというのは、本当に私たちの計り知れない部分で弱い。

母方の祖母は苦労が多い人だった。

自分の楽しみを何も享受しなかったと、母が嘆いていた。

 

こんなこともあり、私はすっかり以前の死にたい気持ちなど忘れてしまったのである。

 

私自身は仙台市中心部の会社に勤めていたので県庁に避難し、

3日後くらいに仙台市内の友人を頼って家族がいる亘理町の避難所へ身を寄せました。

(携帯電話のEメールは何とか受信できて、家人が無事なことはわかっていた。そして家人が避難する場所は検討がついていた。)

友人はその際貴重だったガソリンを並んで何とか給油して、私の送迎に使ってくれた。

 

家人と合流はしたが避難所の集団生活が私には合わず、

折良く会社の同僚の家で1人位なら受け容れ可能だからおいで、と誘ってくれたので、家族と別れ1人で仙台市内に避難しました。

私は一人でいる時間がとても大切。

誰の目にも触れない場所を作ることは精神衛生上どうしても必要なことでした。

 

その時はわがままでも誰から責められても自分の気持ちを優先することにしたのです。

もちろん、誰も私を責めたりしませんでした。

 

衣食住が最低限保証されても、お金があっても、

それでは足りないことは私は痛いほど知っている。

むしろ、足りないそれらがあれば、お金は数字でありそれ以上でも以下でもない。

 

通勤の為駅前駐車場を借りていた為、そこに駐車していた私の車は無事だったので、私の車は家族にのこし、身一つで同僚の家に向かいました。

(正確には同僚の70歳台の母が一人で暮らしているおうちでした。)

 

その後3ヶ月居候し、自転車も借りて通勤していました。

初対面のT家のおかあさんとは不思議に意気投合。

親切だけど個人主義で自立していて、田舎のご婦人の馴れ馴れしさなど皆無。

そこも私には居心地がよかった。

(T家のおかあさん、Mちゃん、ありがとうございます。また近いうちお会いしましょう。)

 

散々お世話になって明るいT家のおかあさんに癒やされて、その時期は楽しく暮らしました。

 

自身の慰みに、仙台駅前のファッションビルで綺麗なお洋服を予算の許す限り沢山買い、

気に入ったネックレスやピアスを買い、

川原泉の漫画の文庫版を新品で全巻購入しました。

アルコールだって我慢せず飲みました。

 

身一つしかないんだから身綺麗にしよう、と思い、

スナック菓子や嗜好品を絶って(お酒以外)

沢山自転車や徒歩で移動し、震災前はちょっと太っていて24%位あった体脂肪は20%位に減。

ブラックジョークだが、これが被災ダイエット。

 

被災地で治安や何らかの事情で、娯楽や嗜好品の持ち込みを禁じることがあるというニュースを

トルコ・シリア地震のツイートをきっかけで知りましたが、

 

嗜好品ほど心を慰めるものはない。

(私は依存したら怖いと思い、食べ物の嗜好品やお酒は控えてましたが、

洋服や漫画は我慢しませんでした。)

 

いつもの普通の生活にあったものこそ、届けることは大事です。

もちろん救助の方を邪魔するようなことはあってはなりませんが、

アルピニスト野口健さんが、トルコ・シリア地震だけではなく2016年の熊本地震などの支援の際、

嗜好品を差し入れいていた逸話をきいて、

被災者の身体だけでなく心を大事にする方法を存じ上げてるな、と嬉しくなりました。

 

熊本地震の際は嗜好品の差し入れについて不謹慎だのなんだのと意見は飛んだようですが、

そこは理解すべきだし雁字搦めにすることはないと思います。

 

地獄みたいな被災地で、それらに直接関わる当事者は、

他人に迷惑かけたいとも思いません。

静かに好きなお酒を傾けたり、煙草をふかしたりするだけです。

 

そしてトルコは東日本大震災の際、日本によくしてくれた国です。

忘れずに、恩を返したいと思っております。

 

さて。避難生活のはなしの続きですが。

2011年6月には仮設住宅が完成し、住まいが決まったので亘理に戻りました。

 

その派生で、

うちの先祖や家系や、町の話をちょっとだけしたい。

 

私の記憶だと、生家は曾祖父の時代から住んでいる家だった。

すぐ近所には祖父の兄弟である大伯母や、祖母の兄弟の一家など、はとこや又従兄弟など沢山親戚が住んでいた。

 

祖母は昔の話や戦争の話や家系の話をよく私に聞かせようとしていたが、私は何故だか怖くって全力で抵抗した。

 

今思えば、「聞いておけば良かった。」

 

私は大きくなってから日本史に興味を持った。

 

宮城県亘理(わたり)郡は、古くは貝塚が出るほど昔から人が住んでた地域。

小学校の頃課外学習で貝塚は連れて行かれたけれど、さっぱり覚えてなかったし興味もなかった。古墳だって見せられた。でも余り覚えてない。

 

文献上で亘理の名が出てくるのは なんと718年!

日本書紀に出てくる地名、葦の浦が亘理だって記述もある。(1056年!)

平安時代、亘理権大夫・藤原経清の所領があった。

三十三間堂の跡地って何か知らなかったけど、これのことか!

と最近知った。

源頼朝亘理郡が与えられたと記述もある。(1190年。)

 

仙台藩が誇る伊達政宗重臣

(私は政宗のいとこだと習ったけど、資料がみつからない。歴史通の方、間違いがあればご指摘下さい。)

伊達成実(しげざね)を初代藩主とする、亘理伊達氏の城下町だ。

そして代を重ねて、

戊辰戦争仙台藩降伏調停の地となった。(亘理城跡・元亘理神社。)

 

亘理城主14代・伊達邦成(くにしげ)は北海道・伊達市に家臣を連れて開拓しに移住した。

邦成は伊達市の礎を築いた。

北海道伊達市とは姉妹都市である。)

そこで亘理伊達家の武士の歴史を終える。

(詳しくはJR常磐線亘理駅すぐ東隣にある、郷土資料館へ。ものすごい歴史資料が無料で見れる。お金払っても見たいレベルのものでした。)

 

私は知らずに幕末・戊辰戦争箱館戦争の話に異様に惹かれて、歴史小説を読みあさっていたが、こんな近くにものすごい題材があったとは。

司馬遼太郎の「燃えよ剣」が大好き。)

 

外にばかり目を向けている場合などではない。

会津が、長州が、薩摩が、なんて言ってる場合じゃなかった。

(もちろん、会津戦争の悲惨さには涙を呑むし勝てるとも思わないが)

 

地元に、ものすごい歴史があった。

私は愕然とした。

 

亘理神社には戊辰戦没の碑・戊辰殉難五十年祭記念碑・大東亜戦争忠霊塔などがある。

 

戦争に負けるとはどういうことか。

その苦悩や受難がありありと感じられる。

 

私は、大人になってから戦後日本を支えたじいちゃんばあちゃん、先祖達の恩恵で今の快適な日本人としての生活をしていることに気がついて愕然とする。

海外の親日家の日本に対する敬意や好意や、現代日本のインフラなど。

 

これは私たちがつくったものではない。

あくまで、先人たちの遺した遺産なのだ。

 

いま日本はそういった遺産を使い果たそうとしている。

そういった危機に気がつかず、指を咥えて遺産を享受するしかない日本人は滅びるしかないのだろうか。

 

例え負けるとわかっていても、戦わないといけない人たちがいたのだ。

その人たちに戦争の責任を押しつけ、尊厳を奪う、後ろ足で砂をかけるようなものたちは、本当の日本人ではないのだ。

 

ばあちゃんの話を聞かなかった後悔とは。

そういう意味のものである。

 

ともかく、第一次情報が生きているうちに操作されていない資料を見て、見聞を広め、大和心を守らねばならぬ。

 

あんなにあんなに、おじいとおばあが伝えようとしていたのに。

身近で聞ける第一次情報があったのに。

 

愛国心と先祖を敬う気持ちを捨てたら、日本は滅びる。

日本が滅びて喜ぶ奴らなんかに、明け渡してはならない。

 

話は震災の話だったが、この話がズレてるとも思わない。

 

日本を滅ぼすのは震災などではない。

戦争でもない。

我々自身のアイデンティティを日本の不利益を喜ぶ奴らの為に捻じ曲げることだ。

個人の欲のために母国を売ることだ。

そしてその行為に気がつかないことだ。

命が残ったとしても、矜恃を捨てたら滅びるのだ。

 

今すぐ分からなくてもいい。

じいちゃんやばあちゃんが死んだ後に、気がついた私のように、

他人大勢が気がつくべき時を待つこともひとつの手段だ。

その為の種を蒔くことをやめてはならない。

 

私は東日本大震災の被災者で、体験者で、第一次情報の持ち主だ。

 

はっきり言って、震災メモリアル建造物は見たくない。

震災を特集した特別番組など観たくない。

ないけど、

意義はないとは言えない。

 

修学旅行で行った、広島、長崎。

広島の原爆ドームで聞いた語り部のはなし。

 

大人になってから旅行した沖縄・ひめゆりの塔

未だに新しく名前が刻まれる慰霊碑。

 

そういったものを観て、見たからといって、

戦争を憎んで災害を憎んで、

タブー視して終わり?

否。

そこで立ち止まることは許さない。

いや、私が私自身に許さないだけだと思う。

 

私たち日本人は、傷つけられても、傷ついても、

生き残ったからには、誇り高く生きねばならないのだ。

 

命とは、生きている本人だけのものではないのだ。

遺ったものには使命があるのだ。

大きくなくて良い。

ささやかでもいい。

 

平和とは、戦争を放棄さえすれば得られる安っぽいものではないのだ。

 

日本人は、史上類を見ない敗戦の仕方を経験してしまって、本当の敗戦国の尊厳のなさを経験していないがゆえ平和を軽く扱ってはないか。

 

自分を、親を、先祖を、そして子を思えばこの先の日本は無条件降伏など出来ない。

あの時日本を遺してくれた人たちに、顔向けが出来ない。

 

戦争や災害を自分以外の誰かに伝えて、語り継がれて、平和の意味を正しく認識して、

 

そうして初めて語り部

忘れることを自分に許すのではないかと思う。

 

伝えるのは忘れるため。

 

忘れることを許して自分を解放するため。

 

震災は復興すれば終わりじゃない。

 

私はただ、復興した日本を、

昔の日本も今の日本も愛しているから、

生き残った私たちで台無しにすることだけは、耐えがたい。

 

でも、神風を吹かすような奇跡の力は私自身にはないことは知っているから。

 

粛々と、生きる。

必死で自分に出来る手段で抗う。

最期まで、目をかっぽじって見開いて、

つらくても目をそらさない。

 

そう決めたのは、そうはっきり自覚したのは、

震災だけがきっかけではないけれど、

大きな原因とも言える。

何とも皮肉であります。

 

私の強い祈りに箔がついた。

今日の所、震災に良い面があったと無理矢理定義するならば。

そこに限る。

 

もちろん、こんな箔など身につかなくとも震災など起きなかった方が何万倍も良かったとは思うけど。

時は戻らないしもう振り返らないから。

後悔があったとしても今はもう無いと言いたいから。

 

今しか人は生きれないから。

私は今日も生きている。

生きていることを謳歌する。

 

最後に。

 

忘れよう、手放そう。

つらいことを忘れたからって、大切なものを蔑ろにするほど、私たちは愚かではないはずだ。

 

過去の教訓よりも、

今が大事。

今を愛おしもう。

 

3月11日に寄せて。

 

 

 

おしまい。